物書きは恥かき

始めより 終わりむつかし ひとの道・・・窓際の凡才ですが おもいきり 生きてます

蒸気機関車

BS-hiで北海道のSLが放送された。

懐かしかった。もちろん今でも走ってはいるのだけれど。

私が生まれた頃、本州では次々と姿を消していったそうだが、北海道には逆に次々と集結したそうだ。

幼稚園にも入らない頃 祖父に連れられて散歩に行くと

小樽警察署からちょっと下ったところにある陸橋の真ん中でしばらく時間をつぶした。

真下には何本もの線路が走っている。

そこへ たまに蒸気機関車がやってくると 足下からもうもうとあがる煙の真ん中に立ちたかった。

厭な匂いではない むしろ好きな匂いだけれど 祖父には 避けろといわれる

聞かずにわざと真ん中に立つと「息を止めろ」といわれる

で 顔や服が煤けるので 帰ってからおばあちゃんに怒られるのだ。

小学校の海水浴で塩谷、蘭島へ行くとき、洞爺湖へ行くとき、ニセコにスキーに行くとき、

蒸気機関車には普通に乗っていた記憶がある。

古びた木製の直角イス、天然繊維の網目の荷物棚、鉄製の壁掛けフック、

二重のガラス窓の木枠に 布製の日よけ幕・・・

トンネルに入る直前には、窓際に座る大人の誰かが急いで窓を閉める

煙が入ってくるからだ。

そんな乗客としての心得を 10歳にもならない内から 祖父や父に教えられた。

警察官だった祖父からは 油断ならない人が乗客に紛れていることも教えられた。

今回のHS-hiの番組の中で、

畑の中で手を振る男の子に応えるように SLの優しい汽笛が鳴らされた 。

昔はこういう交流は ごく自然に当たり前のように見かけたように思う。

父は若い頃はノンプロ球団樽協のピッチャーだったが、

天狗山の麓に居を構えたせいか 教員という職業環境のおかげもあってか

私が生まれた頃からはスキーに力を入れ始めたようで

物心ついたときからSAJ指導員、小樽スキー連盟の人たちがお友達という姿を見てきた。

私が小中学生の頃 小樽スキー連盟の指導員の職業といえば

国鉄、学校、市役所、電電公社がほとんどの割合を占めていて

中には 蒸気機関車の運転手という人も何人かいたと記憶する。

父は晩酌の肴に 私や弟にとうとうと武勇伝を語るのが日課だったのだけれど

あるとき、スキー連盟の後輩にあたる国鉄職員の結婚式の逸話をきかせたことがある。

小樽市内の某所で披露宴が開かれていた時間帯には

その近くを通り過ぎる汽車はことごとく 祝いの汽笛を鳴らしたのだそうだ。

近所の一般市民は何事かと思ったかもしれないが

当時はそんなことで苦情を申し立てるような人もなく

汽車の汽笛のそのむこうには それを鳴らす人の心が見える そんな良い時代だった。

65歳を過ぎたら 北海道に落ち着いて 全道を回ってみようか

なんて気にさせられた番組だった。

P.S. 小樽市役所の左脇の口から入ると 昔懐かしいコークス(?)の匂いがする。 それが嬉しくて、市役所へ行くと なるべくそこを通るようにしている。

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