物書きは恥かき

始めより 終わりむつかし ひとの道・・・窓際の凡才ですが おもいきり 生きてます

滑走歴

<スキーに関して>
 伯父は元アルペン五輪選手、父は長年北海道スキー連盟に関わり、伯父叔母従兄弟も多数SAJ指導員というスキー一族の片隅で生息し続けています。
 そんな人がどうしてコンピュータの仕事を?と、しばしば友人に訊かれるんですけど、実は私が職業を意識し始めた思春期に父が「SAJはアマチュアの団体だ。第一スキーで食べていこうなんてのは、やくざなことだ。余暇に教えるならまだしも、正業はほかに持て」と固く申しました。そういうご時世だったのです。
 野球少年がプロ野球選手に憧れるのと同様に、スキー少年・少女の多くは、雪の上でのプロとしての稼業に憧れるものだと思います。
 私もその1人でしたが、幼い頃に先天性股関節脱臼だったために、医者に成長期の過激な運動を止められ、体育の授業はこなしてもスキー部に入って過激な練習はするなといわれました。
 従順(?)な私は、大学4年生の冬に準指導員資格を取得、既定の2年間を置いて、順調に指導員資格も取得したあとは、母山である小樽天狗山のSAJスキースクールで、地元の子供達を教えたり、検定会の手伝いをしたり、出身大学のスキー授業の臨時講師をしたりという、SAJ指導員本来の地味な活動を重ねていたのです。
 しかし、時代は変わるんですね。せめてあと10年早く世の中が動いてくれていたらと思いましたが、プロ・アマの垣根が薄らぎ、ボランティア一辺倒だったSAJに所属していても、プロのスキー教師と認められる資格がもてるようになりました。プロとは?アマチュアとは?と悩んでいたのは、何だったんでしょう?(ただし、体協公認スポーツ指導者のスキー教師資格ができた当初は、不確定な情報ばかりで疑問も多く、暫時経過したのち、移行措置を受けて取得しました。)
 とにもかくにも、堂々と「プロのスキー教師」といえる時代がきたことで、私は手足の鎖から解放された気分で、商業スキーのメッカともいえる苗場のスクールで常勤講師を務めることで、幼い頃からの夢を果たした気持ちに浸れたのでした。
 40代では、本業のシステム屋の方が多忙となり、また、中堅どころになったせいもあって、指導員研修会参加の他は、年末年始に小樽天狗山スキースクールで教えたり、苗場などにフリーで滑りに行く程度になっていました。
 そして50代では、父の他界をきっかけにあまり山へ行かなくなりました。
 しかし、それでも「お前も65までは滑れるべ」という父の言葉を道しるべに、指導員資格を継続保持するべく滑走しています。
 また、還暦を前の前にして、孫と一緒の滑走を楽しみに、筋力維持を心かげるようになりました。

<滑走履歴>
  国内:小樽天狗山・キロロ・朝里川温泉・オーンズ(春香)、手稲ハイランド、ダイワルスツ、ニセコ(ヒラフ・ワイス・アンヌプリ・東山)、大鰐、蔵王温泉(大学のスキー体育の臨時講師)、裏磐梯、塩原、苗場、中里、岩原、志賀高原、万座、車山、菅平、白馬、八方、いわたけ、その他(狭山、ザウス)。
  国外:ツェルマット(スイス)、アラスカ。