物書きは恥かき

始めより 終わりむつかし ひとの道・・・窓際の凡才ですが おもいきり 生きてます

こども時代のわたし

※ 書きかけです。

1歳過ぎて先天性股関節脱臼が見つかり、1年ほどギブス生活をしたらしい。この頃の記憶はかすかにある。右左どちらの股関節だったのか、私が大人になってからも、祖父母も父母も「どっちだったろう」とはっきり教えてくれなかった。たぶん、私に意識させたくなかったのではないか。

筋肉を強くして補完する目的もあったのか、3歳頃から父は私にスキーを履かせた。最初のゲレンデは玄関前の坂道。
一方の母は、娘にはバレエをという夢が破れ、代わりに3歳からピアノを習わせようとしたが、先生にまだ早いと言われ、渋々ヤマハ音楽教室に2年、5歳になって念願のピアノに移行。近所にプロのピアノ教室があったのだけど、小学校の先生繋がりか、母の仲良しだったのか、割と有名だった種村先生宅に通う。でも、私は本当はバイオリンに興味があった。ピアノを皮切りに、習い事の数は増加。小学校に上がると、絵とそろばんが加わった。弟も一緒だった。母はいわば教育ママだったかもしれない。分厚い文学シリーズとか百科事典などが、小学1年生のころからずらりと本棚に並んだ。
そんなタスクを与えられる一方で、私も弟も自発的にいろいろなものに興味を持った。長く続いたのは、スキー、写真、天文、工学。
私は文学より百科事典をよく読んだ。10歳くらいになると、父の本棚から、スイスのスキー教本とかオーストリアスキーの本などを自室に持ち出した。あるとき父が気がついたのか「俺のスキーの本無いんだよな、知らないか?」というので「私が借りてる。返すよ」と答えたら、「いや、読んでるならいいんだ。終わったら元にもどしておけよ」とやけに嬉しそうな顔をした。
弟は幼稚園の頃からプラモデルに熱中していた。小学生になると電気系の工作に夢中になって、10歳では半田ごてを巧みに使いこなしかなり難しいものを作っていたようだ(私にはわからないw)。その延長が今の弟だ。
同じ頃、私は写真に出会った。小学5年の頃、父がどこからか写真の引き伸ばし機を入手してきて、2階の書斎を真っ暗にして現像や焼き付けを始めた。「やってみるか?」といわれて即座にとびついた。その1年後には、その引き伸ばし機はほとんど私専用となっていて、中学高校と写真部に入るきっかけになった。
弟と共通の趣味は天文で、私が6年生の頃には、二人で親に天体望遠鏡をねだった。当時は天体望遠鏡はやたら高かった。母は財布と、知り合いの理科の先生に相談し、相談相手の理科の先生は「小学生だからこのレベルでいいだろう」と考えたようで、五島光学の5センチ屈折を与えられたが、二人とも不満だった。
理想は10センチの反射望遠鏡。しかし、私はともかく弟はもっと高いレベルを目指していたので、数年後には小遣いをためて、ニコンに10センチの鏡を発注し、自作望遠鏡を作った。その間、我々は5センチ屈折で天体写真を撮影し、特に弟は、投稿写真が天文ガイドに掲載されたことがある。もちろん天体写真も、自分たちで現像し、引き伸ばしていた。
うちの親の偉いところは、子供達が毎晩のように家の前に突っ立ったり、部屋の窓を開けっ放して空に筒を向ける姿をみて、そこまでやりたいならと、大工さんに頼んで自宅2階の屋根を改造して屋根裏を3階の天文台にしてくれたことだ。今は、天文台部分は無い。たぶん、無落雪の屋根に改築する時に壊したのだろう。弟も私もすでに家から出ていた。
中学高校の部活は、母が私の股関節を心配したこともあり、文系ばかりだった。中学では写真部、高校では写真部と地学部天文班(弟と1年間一緒だった)。体育の成績は抜群によかったから、先生達も不思議がり、スキー部からの勧誘を断るのに難儀した。
スキー部に入らなくても、スキーはやっていた。
(つづく)