物書きは恥かき

始めより 終わりむつかし ひとの道・・・窓際の凡才ですが おもいきり 生きてます

秋に想う

9月27日にスキーの指導員登録と研修会申込の手続きがあった。
父が他界してから しばしば迷うことがある。
指導員資格を継続する必要があるのだろうか、とか。
スキー学校の窓から45歳の私の滑りを見て、「おまえも65までは滑れるな」と嬉しそうな顔をした父をおもうと、その歳までは続けようか、好きに滑るだけで資格はもう要らないんじゃないか、とか、いろんな迷いがわいてくる。

3歳から滑ってきて、父はとにかく私の上達を楽しみにしてくれた。道具もいつも、腕前に適したランクのものを与えてくれたし、良い環境を与えてくれた。父はそういう面でも一流の指導者だった。
小学生の頃は毎年バンビスキー大会に申し込んで、上位入賞賞品のキャラメル詰め合わせを弟と分けておやつにした。小樽中の小学生が集まるOSSというスキースクールの仕組みができると、真っ先に参加させられた。5、6年生になると、母が買いそろえた文学全集より、父の本棚に並ぶスキーの専門書の方が興味深くて、どうやったらウェデルンができるようになるか知りたくて、たまに持ち出しては読みふけっていた。
あるとき父が「おまえ、俺の本棚にあった『オーストリア スキー教程』知らねえか?」と訊いてきた。「あ、ごめん、借りてる」と答えると、「読んでるのか?」と驚いた顔をした。「うん」「わかるのか?」「うん。今持ってくる」「いや、いいんだ。読んでるならいいんだ。終わったら戻しておけ」と、やたら嬉しそうだった。

中学生になった頃には、バッジテストを受けるだろうと期待したようだが、そこまでやる気になれなかった。なんだか、親の欲目でおだてられているように感じていたから。それに、中学生ではどう頑張っても1級止まりで、その上の準指導員を受けるには20歳まで間が空いてしまう。先が見えていて、誰にほめられてもやる気になれなかった。
加えて、母はとにかく私の股関節脱臼を心配して、成長期の過激な運動は禁止したため、熱心に勧誘されたスキー部にも入らず、冬にはひとり、あるいは幼なじみの田中孝ちゃんと天狗山で滑りまくっていた。自ずと当時の冬のお小遣いはほとんどリフト代になっていた。
高校生の頃は、天文と写真の文化系クラブばかりで、冬はやはり自分で山へ行って滑っていた。
小樽の学校は冬の体育はスキーだ。中学でも高校でもトップクラスだったが、井の中の蛙に思えたし、五輪を目指すようなレベルではなかったので、自信が持てなかった。
大学1年生になって雪のない土地で暮らすうち、雪が恋しくなって、秋になってやっと自分から求めてスキー部に入った。
その報せに父はとにかく喜んだらしい。金を送るから新しいブーツ、板、ストック一式を買え、って言ってくれたっけ。それと、当時はSAJといえば小賀坂スキーという時代で、五輪選手の恒男叔父がアドバイザーで、父もその関係で交流があった高田馬場駅近傍にある事務所に出入りする機会をわざわざ作ってくれたりもした。私がもっと熱心だったら、スキー業界への就職もあったかもしれない。

19歳、大学2年になって、体育の北先生の計らいで1年生のスキー教室の引率をした冬のこと、蔵王のペアリフトで偶然同席した地元の指導員に話しかけられた。「上手ですね。有資格者ですか?」
あんなに広くて混雑しているゲレンデで、その指導員は私の滑りをみていたのだ。
「いいえ、1級も持っていません」と答えると「もったいないですね」といわれた。
これはおだてじゃない、とちょっと嬉しくなった。
それに、スキー教室に非常勤講師で招かれていた札幌出身の結城さんも、のとは上手いな、真ん中に乗ってる、と講師部屋で評価してくれていたらしい。結城さんは札幌出身、アルペンで五輪候補にもなったそうで、代々木のオリンピックセンター職員、北先生の順天堂の後輩だった。
その頃から、私の中に欲が出てきた。

スキー部といっても関東の雪無し県、男子ばかりだったがレベルは低かった。当時の主将は高校生の時に国体に出場したことが自慢のタネだったが、本場小樽の大会で目の肥えた私には、滑りをみてやや失望したものだ。
それに競技スキー部のくせに先輩たちは3年、4年になると3、4人がSAJのバッジテストを受けて、合格すると大喜びする、そんな様子をみて、自分も受けてみる気になった。
3年生の春、もう天狗山のリフトも終わるような頃に、スキーを抱えて帰省するやいなや、石炭ストーブの脇で晩酌をする父親に「バッジテストはいつまでやってるの?」と訊いた。
とたんに父の顔色が変わって「明日で終わりだ。おまえ、受けるのか?」
「うん。指導員になりたいから、まず1級をとらないと」

翌日、父は当番でもないのに、朝早くからスキー学校へ上っていった。
寝坊した私は、道具を背負って必至に坂道を上り、吐き気がするのをこらえつつ受検受付窓口へ行くと、待ちかねたように父が奥から出てきて、受検票を差し出した。
氏名を書いていると、「おまえ、何級受けるのよ?」ぼそぼそと話しかけてきた。
「初めてだから2級からだよ」
「長野のどっかで取ったって書け」
「え?」思わず顔を上げて父を見た。そんな嘘ついていいのか?
「いいから書け。1年もったいない」
今年最後のバッジテストだから、1級を取るのは来年になり、準指導員を受けるのは再来年になる。今年中に1級をとると、来年準指導員を受検できる。
言われたとおり、スキー部で合宿した山を書いて出し、ゼッケンを付けて検定場所のダイナミックコースへ行った。ダイナミックコースは、普通のスキーヤーは怖くて足を踏み入れない、私たちも普段は行かない険しい斜面だ。そんな斜面で、時間ぎりぎりだったから、足慣らしも練習も何も無し、いきなり検定だ。
種目は、パラレル、ウェデルン、総合滑降、ゲレシュプ(男子のみ、という規定だったが、たしか私は希望して飛んだと思う)だったろうか。
総合滑降では、当時先進的だったステップターンを入れてやったところ、高得点をいただいた。ゴール直後に検定員の1人に「ほぉ。ステップターンをどこで習ったんですか?」と驚き顔で訊かれ、「大学のスキー部で練習しました」と答えたのを覚えている。
そう。競技スキー部だったので、加速のためのステップターンの研究はしていたのだ。

そんな様子を、父は脇でゲレシュプ台を作るふりをしながら観察していた。娘の受検が気になって気になって、当番でもないのにコースに手伝いにやってきていた。
1級取得は私より父の方が喜んだかもしれない。
翌年、準指導員を取った。場所は大和ルスツだった。このときはさすがに父は来なかったが、当時の父は北海道の代表として全日本の中央研修会に参加していて、中央トップの理論をダイレクトに吸収していた貴重な存在だったので、受検にあたっては茶の間で毎日のようにスキー技術に関する質問をし、それに対して的確な解答をもらった。
そして規定通りその2年後、朝里ホワイトバレーで指導員を受けたとき、父は検定員の1人だった。担当種目は横滑り。私の一番の得意種目だった。なのに、ゴール地点の3人の検定員の真ん中の父親を見たとたん、脚が自由に動かなくなって、さんざんの滑りだった。ゴールしたとたん、参ったな、こんな肝心な時にと首をかしげつつ、検定員のそばを通り過ぎた時、「なにやってるんだ」と言われた。その通りです。最高得点とれそうな得意種目なのに。

50年以上、雪の上で滑ってきた。
おもえば、自分のためだけではなく、父の喜ぶ顔を見るためもあって、私はスキーを続けてきたのかもしれない。
父が他界する前後3年は、1日も滑らない年があった。お産した年でさえ滑ってたのだ、初めてのことだった。
その程度のブランクは屁でもないが、他の山ならともかく天狗山には行く気になれなかった。とにかく父を思い出し、父の姿が浮かんで悲しいのだ。
ところが、どうやら次女の新しい彼氏がスキーかスノーボードをやるらしく、交際のためにスキーに熱心になった次女に「ママ、スキー教えて」と乞われて足慣らしに付き合って、やっとのことで天狗山の雪を踏んだのが2年前。自分の峠はとうに越したが、まだまだそこらの若いスキーヤーには負けない安定した滑りを披露して、次女を驚かせた。
そのとき、スクールに顔を出して話をした流れで、2日ほどスクールを手伝った。小樽の小学生は相変わらず元気だ。その元気をもらって、上から下までノンストップで流せるほど、自分も回復していた。

今年は夏の間の庭仕事で、さらに体が軽快になっている。
たしかに65までは滑れそうだ。
さて。 どの山で滑ろう。

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